iseeNY.com (現在廃刊) 2006年掲載
思えばこれが転機だった:第一線で輝くアノ人のサクセス・ストーリー
アメリカン・バレエ・シアター(American Ballet Theatre) バレリーナ
加治屋 百合子(Yuriko Kajiya)さん
プロフィール
10歳で中国に渡り上海バレエ学校に入学、6年後初の外国人留学生として卒業。在学中の1997年(13歳)、タオ・リ・ベイ国立バレエ・コンクールで優秀表現賞を受賞。その2年後、世界バレエ・コンクール(名古屋)で最年少のファイナリストに選ばれる。2000年、ローザンヌ国際コンクールにてローザンヌ賞を受賞、奨学金を得て国立バレエ学校の特待生としてカナダに渡り、翌年ニューヨークへ。アメリカン・バレエ・シアター傘下のスタジオ・カンパニーの研修生を経て、アメリカン・バレエ・シアターのバレリーナとなる。
芸術には限りがない。どれだけがんばっても上があるから、満足することはないです
世界でも5本の指に入るというバレエシアターの名門、アメリカン・バレエ・シアター(以下ABT)。そこで舞う、若き日本人バレリーナ・加治屋百合子。中国の国立学校でバレエを学び、カナダ留学を経て現在ニューヨークで夢を追い続けている。
話をしてみると意外や意外、華奢な外見ややんわりした口調から受けるその可憐な印象とは対照的に、負けず嫌いでガッツのある現代女性の片鱗を覗かせた。
反骨精神が、技術的にも精神的にも成長させた中国時代
バレエと聞けば、誰のイメージにもまずロシアという国が浮かぶのではないだろうか。しかし10歳の彼女がバレエを学ぶために選んだのは、日本の隣の国、中国の上海だった。
「父親の転勤がそもそものきっかけだったんですけど、今思えば、国立学校で学べる機会に恵まれたのは絶好のタイミングだったと思っています。当の父親は1年で帰国したわけですが、私は中途半端なまま終わらせたくなくて一人でそのまま残ったんです。両親は『帰りたくなったらいつでも帰っておいで』って言っていたんですけど、こう見えて負けず嫌いなので(笑)」
国立バレエ学校は全寮制で、彼女の言葉通り、国がプロのバレリーナを育てるために設立し運営している。優秀な生徒を中国全土から集め、国の援助で育成しているのだ。そんな施設の整った、しかも選び抜かれた者が鎬を削る場で学ぶということは、技術を伸ばす面でかなりの好環境であったはずだが、外国人にとっては決していいことばかりではなかっただろうと察する。
「そもそも自国の人のための学校ですから、私にとっては不利な面もありました。例えば学費も中国人は無料でも私は適用外だし、指導面でもほかの生徒との違いが多少あったり。それに、柔軟性など体型的に不利な点もあって、誰も私がプロになれるなんて思っていなかったと思うんです。でもそうだったからこそ、負けずに“これでもか!”っていうぐらい自分と戦い続けることができたのだと思っています。私って何かをバネにもっとがんばれる性格だから(笑)」
そう軽く言ってのける彼女。大の大人ならまだわかるが、当時の彼女はまだ小学生。その外見からは一見想像し難い根っからの反骨精神が、彼女をバレリーナとしてだけでなく人としても成長させたようだ。
転機1: 奨学金を手にし、カナダの学校へ
天賦の才能に加え並ならぬ努力の跡が、国際規模のコンクールにおける数々の受賞や優等生に送られる奨学金の授与から見受けられる。若い選手の登竜門であり、ハードルの高さでも有名な「ローザンヌ」という国際コンクールで受賞し、その奨学金でカナダのトロントにある国立バレエ学校(ナショナル・バレエ・スクール)に留学することになった。中国での6年間を終えた16歳のときのこと。ここでも彼女の才能が花開いた。
「私は高校2年生だったんですけど、バレエのクラスだけ最上級の3年生のクラスに入れていただいたんです。それで、まわりの上級生がオーディションに行きはじめたのを見て、私も自然に受けてみようと思いました」
オーディションに合格した中で最後まで迷ったのは、カナダの国立バレエ団に属すか、もしくはニューヨークにあるABTの傘下にあるスタジオ・カンパニーに移るかという2つの選択だった。


転機2:ニューヨークでプロへの切符を手にした
自分の生活を持たないと、舞台に跳ね返ってこない
彼女が最終的に選んだのは、ABTのスタジオ・カンパニーだった。世界的に名の知れたシアターで研修生としてスタートすることは、さまざまな将来の可能性に繋がることを意味していたからだ。そして新天地でも彼女の才能と実力が認められるのに時間はかからなかった。
スタジオ・カンパニーの中でも彼女だけが3ヵ月という異例ともいえるスピードで、ABTに採用されたのだ。あれだけ厳しかった中国の国立学校の卒業生でも、半分以上がプロになれぬまま挫折するほど厳しく狭き門だが、彼女は世界でも有数のシアターで「プロ」としての切符を手にした。
「上海にいるときは学校にしかいなかったので、バレエが生活のすべてで自分の生活というものを持っていなかったんですが、アメリカに来て思ったのは、バレリーナといえども劇場やリハーサルスタジオを一歩出ると、皆自分の生活を持っていること。つまりそれがないとバレエに反映されないんだって気づいたんです。ABTはストーリーバレエが多いから、自分で経験していないと演技することは非常に難しいんです。いろんなことを見て学んで楽しむことは、結果的に舞台にも跳ね返ってくるのだということをしみじみと感じました」
「辞めたい」と思っても、それはほんの一瞬だけ
成功の裏には数々の失敗もつきものだが、彼女の場合、困難を乗り越えるためのモチベーションはどのように保っているのだろうか?
「何か辛いことがあったとして『辞めてしまおう!』と思ってもそれはほんの一瞬だけで(笑)、次の瞬間にはやっぱりがんばろうっていう気持ちに戻るんですよ。努力すればするほど、必ず自分に跳ね返ってきますから。芸術というのは限りがなく、学校のように100点取ったら終わりではないので、どれだけがんばっても上がある。特に、スタジオで練習をがんばって舞台で結果が出たときのうれしさというのは、ものすごく大きいんです。そしてそれができても次、また次というように、より上を目指してやまないのです。自分にちょっと厳しすぎるかなと思うことも、たまにありますけどね(笑)」
(取材・写真/安部かすみ Kasumi Abe)

アメリカン・バレエ・シアター(American Ballet Theatre) TEL:212- 477-3030
ABTの最新ニュース!
12月7日より、ワシントンDCで「くるみ割り人形」の公演が行われる。06年はワシントンDCでの公演を皮切りに、オハイオ州クリーブランド、シカゴ、カリフォルニアと全米ツアーが続き、5月22日からニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスにて8週間の公演が行われる。
一口メモ
バレエには、ロシア・スタイルとバランシン・スタイルなどがある。ロシア・スタイルは伝統的で、基本的に皆の顔の位置や向きが同じで動きもゆっくり。一方でバランシン・スタイルは一人一人の動きが違い、テンポもロシア・スタイルより早め。ちなみに加治屋さんの場合、中国ではロシア・スタイルを学んだので、ABTに来て最初は戸惑ったらしいが、「ABTの面白さは、いろんな国でいろんなスタイルを学んだダンサーが一堂に集っていることです」(加治屋さん)
百合子流 サクセスの格言
一、悔しい気持ちを、瞬時にがんばる努力に切り替える。
二、マイナス部分を、逆にバネにする。
三、さまざまな経験が必要。最終的には自分に戻ってくる。
略歴
名古屋生まれ。8歳でバレエを習いはじめる。
1994、中国に渡り、上海バレエ学校に入学。在学中、数々の中国国営テレビでパフォーマンスをする。
1997年、タオ・リ・ベイ・ナショナル・バレエ・コンクール(中国)で優秀表現賞を受賞。
1999年、第三回世界バレエ・コンクール(名古屋)で最年少のファイナリストに唯一の日本人として選ばれる。
2000年、ローザンヌ国際コンクールでローザンヌ賞を受賞、その奨学金を得てカナダにあるナショナル・バレエ学校に入学。
2001年、ニューヨークに移り、アメリカン・バレエ・シアターのスタジオ・カンパニーに所属。
2002年1月より、アメリカン・バレエ・シアターのメインカンパニー研修生として実践を積み、同年6月にコールドバレエ(corps de ballet)の一員として採用され、見事プロのバレリーナとなる。
(*以下掲載されていた写真のキャプション情報)
CAP(ステージ)
毎年5、6月にリンカーンセンターのメトロポリタン・オペラハウスで、10月にシティセンターで公演が行われている。海外ツアーも頻繁に行われ、7月には日本公演が行われたばかり。
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