iseeNY.com (現在廃刊) 2006年掲載
思えばこれが転機だった:第一線で輝くアノ人のサクセス・ストーリー
今月の人
Disney On Ice (ディズニー・オン・アイス)に出演
プロフェッショナル・アイス・スケーター/脚本家
田中靖彦 さん
プロフィール
6歳からフィギュア・スケートを始める。1987年渡米し、カリフォルニア州立大学でテレビ・映画製作を学んだ後、テレビ番組のコーディネイター、低予算映画の脚本家としてLAを拠点に活躍。2003年、Disney On Ice「美女と野獣」公演の出演者オーディションに合格。2年間で14ヵ国のショーを敢行。
淀んだ水を流すには、外からの力に突き動かされるか、自分から動き出すしかない。
その流れの中に、自分の掴めるチャンスが必ず転がってきます。
世界中の子どもに夢を与え続ける氷上エンターテインメント「Disney On Ice」。10年以上ロングランをしつづけている公演「美女と野獣」で、村人や狼など5~6もの役を演じているのが、日本人スケーターの田中靖彦(以下Yasu)さんだ。これまでの2年間で14もの国々をショーでまわり、本拠地であるLAにはトータル1ヵ月いたかいないかだったというような超多忙な生活なのだという。
世界を股にかけて活躍するエンターテイナーYasuさんを、今回はLAで直撃!
トラブルが多かった分、感動もひとしおだった千秋楽
ロングランの「美女と野獣」の千秋楽を南米エクアドルで終えたばかりの彼は、未だ感動が覚めやらぬといった感じだった。
「今回の中南米ツアーは10年以上にわたるロングラン公演の千秋楽で、プエルトリコ、パナマとまわり、最終公演をエクアドルで迎えたときは、これまでの思い出がフラッシュバックして、さすがに涙腺が緩みました。特に今回はドミニカ共和国、グアテマラ等の公演が急遽キャンセルになったり、高度2850mに位置するエクアドルの首都キトで高山病にかかるメンバーが続出したりと予想せぬアクシデントも多く、いつものショーを維持するのに大変な苦労がありましたから」。
周知の通り、「Disney On Ice」とはアメリカ発のエンターテインメントだが、意外なことに出演者の多くはアメリカ人以外の外国人が占めている。カナダやロシア、アルゼンチンなど様々な国から選抜されたプロのスケーターたちが、“プリンシプル”とよばれる主役から“アンサンブル”といわれる様々な脇役を演じているのだ。そのほとんどがアマチュア競技会を引退したばかりの若手スケーターという中、Yasuさんは20年のブランクを克服し、見事にアンサンブルの役を勝ち取った。今回のツアーの中で、唯一の日本人として。
「オーディションは、通常世界ツアーをまわっているときに行われるので、出演者に外国人が多というのはそういう理由もあります。僕は、たまたまLAで受けました。元々スケートとの出会いは6歳の時で、一時は全日本選手権やオリンピックの強化選手として選ばれるまでになったけど、最終的には怪我に泣き世界チャンピオンの夢を諦めました。でも、やっぱり滑ることが好きだったので、第一線から離れた後も日々の生活には常にスケートが存在していました。地元のリンクでコーチをした事もあった。今考えれば、それがよかったことですね」。
転機
昔取った杵柄が錆付く前に、もう一度スケートで勝負
そのオーディションは、今から2年前に遡る。テレビ番組のコーディネイターとして、アメリカ中を奔走する日々だった。もともと旅に興味のある彼は、国外もまわってみたいという夢もあったが、時間の不規則なその仕事では無理だった。自分のやりたいことと現実とのギャップにも心許無く悩んでいた頃、オーディションとちょうど時を同じくして、念願のグリーンカードを取得。彼は水を得た魚のように、精力的に自分の売り込みに徹する。20年以上履き慣れたスケート靴を携えて。
「この年で氷上のスポットライトにまた立てるなんて、夢にも思っていなかったです。ただ永住権を得て自由になれたので、昔取った杵柄が錆付く前に、もう一度スケートで何かに勝負したいという一心だけでした。実際のオーディションでは、ずいぶんとリラックスして臨めました。僕は体が小さいから、主役の王子様には絶対に選ばれないとわかっていましたから(笑)。それにもう一つ気持ち的に楽だったのは、このオーディションではショーマンシップの方が大切だってわかっていたこと。3回転ジャンプなどの難易度の高い技が大切だったアマチュア時代とは違ったからよかったんです」。
アメリカでチャンスを掴み、それを活かすには
実は今回の中南米ツアー中に、アメリカ南部のミシシッピー州に駐車していた大切な自家用車をハリケーン・カトリーナにさらわれたYasuさんだが、天災による被害はこれが初めてではなかった。1994年には、ノースリッジ大地震で一度すべてを失っている。しかし彼はその逆境にもめげず、次へのステップを楽観的に考えていた。
「その時に学んだのは、ゼロから出発しても健康でさえいれば自分次第でどうにでもなるんだということ。同じ所で同じ事をやっていると、どうしても水が淀みます。その淀んだ水をまた流すには、天災も含め外からの力に突き動かされるか、自分から動くしかないのです。一旦事が動き出したら、その流れにのって逆らわないことです。その流れの中に、自分の掴めるチャンスが転がっていることが必ずあるのですから」。
今後の挑戦は果てしなく続く
自分の適性を活かしつつ、自然の流れにうまく乗じて目の前のチャンスを掴んできたYasuさん。ただ、スケーター、エンターテイナーとしての活躍は、あくまでも未来への通過点でしか捉えていないようだ。
そもそもYasuさんがLAに来た理由、そしてエンターテイメントの世界に身を投じた理由は、脚本家としてアメリカでブレイクしたいという究極の夢があったからこそ。
「幼い頃からハリウッド映画に憧れ、これまでに低予算映画の脚本をいくつか書いてはきたものの、やはり大きな目標はメジャー映画の脚本を書くことです。しかしじっとブレイクの機会を待つより何かに挑戦していろんな経験を積む方が、最終的には自分に跳ね返り、結果良い脚本が書けるだろうと考えたのが「Disney~」に参加した一つのきっかけでもあります」
「実際にショーを通して世界28ヵ国を旅することができたし、世界中のいろんなもの、例えばナスカの地上絵やカンボジアの地雷問題などを自分の目で見てきたわけです。それらの経験は今後の脚本人生に活かすことができると思っているし、実際にショーの舞台裏を元にコメディドラマの脚本案も生まれています。この先のことは全く未知数ですが、「Disney~」を通して出会えた新しい世界は、自分の今後にとってすばらしい財産となっていくことと信じ、“今”を一生懸命がんばります!」
大きな目標に向かい、着実に道を切り開いている彼と話しながら、こんなことを考えた。ディズニー・マジックとは世界中の子どもたちに夢を与え続けているものだが、決して子どもだけじゃなく、大人にもそのマジックの不思議な力が働いているのかも、と。
(取材/安部かすみ Kasumi Abe、写真提供/田中靖彦 Yasuhiko Tanaka)
「Disney On Ice」のオフィシャルサイト
Yasu流
成功への格言
一、 自分の適性を知り、うまく活かす
二、 淀んだ水を流すには、外からの力に突き動かされるか、自分から動くしかない
三、 ゼロからの出発でも、自分次第でどうにでも変えられる
四、 目の前のものがゴールじゃなくても、一生懸命チャレンジすることで開けてくる道もある
略歴
1967年生まれ。6歳からスケートを始める。1980年(13歳)に、全日本ジュニア選手権で5位を獲得。サラエボオリンピックの強化選手として、日本スケート連盟に選抜される。
1987年 渡米。カリフォルニア州立大学ノースリッジ校にてテレビ・映画学を専攻。
1997年以降 ロサンジェルスの日系テレビ・プロダクションにて番組コーディネイター、低予算映画フィルム・プロダクションにてインハウスライター(脚本家)として活躍。2001年 脚本を担当した映画「シースレム」(シャノン・エリザベス主演)が日米で配給。
2003年 Disney On Ice「美女と野獣」の出演者オーディションに合格。2年間で公演した国は、14ヵ国にのぼる。
人物メインCAP
村人や狼、チップカッップに変身する6歳のチップ少年、野獣の宿敵ガストンの子分、道化役のラフーなど、同一ショーで5~6もの役を巧みに演じ分ける。
公演風景CAP
1回2時間のショーで、週末は1日3回上演される。「土日6回のショーになると、さすがに体力的に辛く、メンバー間で“6 packsだ~”ってぼやくこともありますよ。ちなみに“6 packs”っていうのは、箱入りビールの数からきた言葉ですね(笑)」
公演風景CAP
東南アジアや中南米ツアーは忘れられないものが多いとか。「エアコンが効いてなかったり、ゴキブリが出演者のスケート靴の中に入ってきたりと、発展途上国ほど舞台裏のハプニングが多いものです(苦笑)」。
公演風景CAP
「『美女と野獣』は話の中にメッセージ性があるので、演じる方としてもとても楽しい」。
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