iseeNY.com (現在廃刊) 2006年掲載
思えばこれが転機だった:第一線で輝くアノ人のサクセス・ストーリー

MSTERIO (ミステリオ) ディレクター/総責任者
寺尾のぞみ(Nozomi Terao)さん
プロフィール
東京生まれ。高校3年生の時、1年間シカゴへ留学。立教女学院大学英文科に入学し、卒業後はアメリカ大使館商務省アカウント・エグゼクティブ、フジテレビ制作部アシスタント・ディレクター、伊藤忠商事アメリカの社長秘書などを経て、87年モルガン・スタンレー証券(東京)に入社。89年ニューヨーク本社に移籍し、エグゼクティブ・ディレクターとして18年にわたって勤務。01年にスタートしたミステリオの活動を本格化させるため、06年6月に同社を退職。現在に至る。
新しいことをはじめるときは、8割の人に反対されるもの。でも残り2割にどうかけるか。それがチャンスなのです。
「自分の人生、このままでいいの?」こんなことを考えてみたことは、誰でも1度や2度はあるだろう。新しい一歩を踏み出したいと思っても、日々の忙しさやリスクを考えているうちに、時間だけが過ぎてしまいがち。
しかしここに、長年のキャリアを捨てて、自分の夢を追いかけはじめた女性がいる。ニューヨーク在住歴20年になる、寺尾のぞみ。キャリア・ウーマンとして金融業界の第一線で働きながら、「ミステリオ」を旗揚げ。そして昨年、その活動を本格化するために、退職の道を選んだ。
ミステリオは彼女の夢と情熱が詰まった、大きな意味のある最初の一歩なのだ。
転職歴が次のチャンスを生んだ「Let’s make a difference!」
彼女のウェブサイトを開くと、まずドーンと目に飛び込んでくるそのスローガン。“さぁ自分の力で変えよう!”そんなポジティブなメッセージのもとに、子どもたちを対象にしたサマーキャンプや講演会など、日本とニューヨークを中心に様々なイベントを企画・運営しているのが「ミステリオ」のディレクター、寺尾のぞみだ。
彼女についてまず興味深いのが、その経歴。アメリカ大使館、フジテレビ、伊藤忠商事、そして昨年まで勤続したモルガン・スタンレー証券と、華麗なる大企業の名が連なる。転職がプラスとされるアメリカならまだしも、終身雇用が”当たり前”のような時代だった一昔前の日本での話だから、そういう意味でも異色の経歴といえよう。
「英語を使う仕事に就きたくて大使館に入ったのですが、大学出たての私はキャピキャピしていて、使いにくかったのでしょう。人間関係で辛いことが多く、今から考えれば“我慢が少し足りなかったかな”という気もしますが、結局2年弱で退職。次にテレビ局でADとして再スタートするわけですが、今度は一転、奴隷のような生活(笑)。時間は不規則だし、環境はスパルタだし。そこで初めて怒鳴られることも経験しましたよ。最終的に体を壊してしまい、そこにいたのも約3年ほどでした」
フジテレビを退職後の彼女は悩んでいた。「英語もキャリアも中途半端。好奇心がありすぎて、どこにフォーカスしてよいのかわからない」。子どもの頃から「日本はダサイ」と思っていた彼女はずっとアメリカに憧れており、「やっぱり行くしかない!」と一念発起。親にはバケーションと嘘をついて、ニューヨークで就職活動を始めた。そして間も無くして、伊藤忠アメリカに社長秘書として採用される。「想像とは違った完全な日本社会でしたが、当時出会った方々には温かく育てていただき、今でもとても感謝しています」。
その後結婚、夫の転勤に伴って退職、帰国となった。時代は80年代後半、バブル経済に沸く日本では、バイリンガルは引く手数多。『ジャパン・タイムス』の求人広告欄では金融業界がやたらと騒がしかった。バイリンガルとしての職歴こそあれど、金融に関しては全くの素人だった彼女。しかし「いろんなことをやっているから雇いたい」と採用してくれたのが、外資系のモルガン・スタンレーだった。彼女が中途半端と悩んでいた転職歴が、新たなチャンスを生むことになった。
転機1:東京支社からニューヨーク本社へ移籍
挫折と失敗を繰り返し、人は成長していく
仕事にも慣れた入社2年目、再び転機が訪れる。アメリカに戻ろうとしていた上司から「ニューヨーク本社に移籍しないか」と声がかかったのだ。日本のクライアントを広げるための任務で、ちょうど離婚し自由の身となったばかりの彼女にとっては、願ったり叶ったりのオファーだった。寺尾は、二つ返事でOK。期待とは裏腹の生活が待っていることも知らずに。
「日本ではサポート的な役割だったのが、一転アメリカでは重要な業務をまかされる立場になり、しかもすべて英語でしょう。もうね、怒鳴られてばかりでしたよ。自信はなくすは、友達はいないはで踏んだり蹴ったり。“あんなに憧れてきたアメリカなのに、何しに来たのだろう?”と、毎晩一人アパートで、こんなことばかり考えていましたね」
しかしそのときも最終的に彼女を救ってくれたのは、周りの人たちだった。彼女をアメリカによんだ直属の上司や当時の債権部長(現社長)が、家族も友人もいない寺尾を心配し、手取り足取り面倒を見てくれたという。
彼女は言う。「モルガンもその前も、私は本当に人に恵まれてきたと思います。結局人が人を育てるんですよね。でもね、育てられる課程はそりゃ厳しいですよ。バシッと精神的に叩かれますからね。人は数々の挫折や失敗、悔しい思いをするから成長や学びがあるわけだけど、今の社会に欠けているのはそれなんだと思います。小学校でも教師が叱ると、親が出てくる。子どもは悔しいと思うこともないわけ。それじゃ子どもは育たないですよ。人を育てる上で、時には叱咤そして激励がとても大切なことなんです」。
転機2:会社員をしながらミステリオを旗揚げ
「自分にできることは?」全てはそんな問いかけからはじまった
ニューヨークに移って約10年、仕事に油が乗り、人の輪も広がって生活に困ることもなくなった。しかし彼女はここで、ふと立ち止まってみる。「これでよいの?自分にできることは何か他にもあるのでは?」。それは当時同じ部署にいた同僚が彼女に見せた一枚の写真がきっかけとなった。
「それには、コネチカットに彼が建てたばかりの、それはすばらしい豪邸が写っていて“君もがんばったらこういう家が買える”と言っていました。でもそれを見たとき、不思議とな~んとも思わなかったんです。当時の私は数字だけで結果が出るような世界にいたので、お金の価値観がよくわからなくなっていたのでしょう。お金はあればあるほどいいのでしょうが、せっかくお金でもボランティアでも還元できる社会にいるのだから、私にはお金だけじゃなくて、何か他にできることがあるんじゃないかと思ったわけです」
“思い立ったら即行動”の彼女は、情熱の傾くままに動いてみた。会社から5週間の休みをもらい2001年の夏、日本で子どもたちを対象に、国際色豊かなインターナショナル・サマーキャンプをすることから「ミステリオ」としての活動をスタート。 “Make a difference!”を彼女が身を持って体現した、大きな意味のある最初の一歩だった。
ミステリオは心からの友人を見つけられ、いつでも戻ってこられるextended family
ところで、おおよそ子どもとは無関係のキャリアを積んできた彼女が、なぜ子どもたちを対象にした活動をはじめることになったのだろうか?
「帰国する度に聞くのは、受験戦争だのニートだの、コンビニ食漬けだのと子どもの驚くような話ばかり。そのくせ一流大に入れたい、国際人にならせたいと“~させたい”だらけ。子ども時代はね、喧嘩してもいいし、泥んこになってめちゃくちゃ遊ぶべきなの。でも本質的なものがついて行ってないから、バランスが取れていない子が多いんですよ。それで、塾なんかでは出会わないような心からの友人を見つけられ、いつでも戻ってこられる家族の延長のような場所を子どもたちのために作ろうと思ったの。それがきっかけですね」。
当時、子どもの心理学を学んでいた世界的バイオリニスト五嶋みどりが寺尾の熱い志に共感し、企画立ち上げからキャンプまで運営ボランティアとして参加。その影響もあり、初年度から大々的なPRをしなくとも48人の子どもが集まった。
「9日間のキャンプが終わる頃には、“お願いします”や“ありがとう”を言えなかった子でも、それが自然と言えるようになったり、受験勉強で押しつぶされそうな子が、見違えるほど生き生きとした表情を取り戻したりしますね。キャンプ中は決して“~しなさい”と強制することはしません。その代わり、途中まで手を引いてあげて後は子どもたちを信頼し、まかせる。そうすると伸び伸びとした発想で考え、自分で答えを導き出すようになります」。
大自然の中、子どもたちと泥んこになりながら、彼女が今までもそしてこれからも、子どもたちに伝えていきたいことは、自身がこれまでの人生で学んできた、<個性の違い>の素晴らしさ、<尊敬し合う>、<勇気を持ってチャレンジする>ことの大切さ、<最後までやり通す責任感>の重要性、などだという。
「実はね、このサマーキャンプを企画したとき、10人中8人から反対されたんです。“子どもがいない私にできるハズがない”と。本当に悔しかったですね。でも“誰だって昔はみんな子どもだったじゃない、子どもに返れる気持ちがあるんだったらできる”と思った。そして私は親としてやるのではなく、親が子に教える場以外のものを作ろうとしているんだと思ったとき、周りのノイズなんて気にならなくなりました」
暫くの間は二足の草鞋を穿いていた寺尾だが、ミステリオをスタートさせてから4年目の夏、彼女のパッションはビジネスでもお金でもなく、完全にミステリオの方に向いていた。全パワーを注ぐため、2005年6月に退職を決意。もう迷いも不安もなかった。
「新しいことをはじめようとするときは、80%の人が反対するものです。でも残りの20%にどうかけられるか。そのチャンスを逃してはいけないんです」
日本人として何か恩返しがしたい。その探求は、これからも続いていく
日本のサマーキャンプからはじまったミステリオだが、今ではティーン対象にしたゲスト参加の講演会、大人のための交流イベント、そしてニューヨークに住む日本人のための支援イベントなど、日米で活動の幅を広げつつある。現在は、6年目となる今夏のサマーキャンプに向けてもっぱら忙しい日々だ。今年は場所も施設も、今まで使ってきたものからすべて一新するため、これまでにない緊張感があるという。「これだけを楽しみにしているお子さんもいますから、がっかりはさせられませんもの」。
20年前、日本を“ダサイ”と飛び出した寺尾だったが、今となっては日本人としての自分にプライドを持ち、日本人のために尽力しているというのだから、人生というのはおもしろく転がっていくものである。
「ここまで来られたのはいろんな方のサポートがあったからこそなんです。その恩返しというのかな、日本人として日本に返せる何かをミステリオでやって行きたいと思っています。それは決して強制的なものじゃなく、あくまでもチョイス的なもの。人生ってきちんと信号があって、チョイスがない方が迷いがなくて楽なのかもしれないけど、世の中出るとそうじゃないですよね。だからミステリオも、子どもたちが挑戦したいと思えるような何かチョイスを与える、そんな存在でありたいと思っています」
彼女自身の「Let’s make a difference!」は、これからも続いていく。
文中敬称略
(取材・写真/安部かすみ Kasumi Abe)
一口メモ:ミステリオ(MSTERIO)のサマーキャンプは、ここが違う!
- 責任感・独立心・決断力・想像力を養う選択制のカリキュラム。
- 講師陣は、外国人やバイリンガルで、国際色豊か。英語が生活の中から自然に身につく。
- チームは様々な年齢や国籍のメンバーで構成され、年代や文化を越えて協調性を養う。
ちなみに、MSTERIOの名の由来は、Music&art,Sports, Teamwork,Energy, Resposibility and Respect, Indipend and Outdoorの頭文字からきている。
寺尾流 サクセスの格言
一、失敗や間違いはたくさんした方がいい。でも同じことは繰り返さず新しい失敗や間違いをする。
二、仕事はゲーム。やると決めたら最後までルールに乗っ取って、正面から立ち向かいチャレンジする。
三、何を欲しいのか、何をもって仕事をしたいのか。意義や目標を明確に心に留めながら仕事に取り組む。
四、人は財産。その財産をどう使うかが成功の鍵。
略歴
東京生まれ。高校3年生の時、1年間シカゴへ留学。
80年、立教女学院大学英文科を卒業。
同年、アメリカ大使館(東京)に就職。商務省にてアカウント・エグゼクティブを務める。
82年、フジテレビ(東京)に転職。制作部にて、アシスタント・ディレクターを務める。
84年、同社退職後、単独でニューヨークに渡り、伊藤忠商事アメリカ(NY)に就職。社長秘書となる。
87年、帰国。モルガン・スタンレー証券(東京)に入社。
89年、同社のニューヨーク本社に移籍し、エグゼクティブ・ディレクターに。
2001年、会社員を続けながら、ミステリオをスタート。
05年、6月に同社を退職。ミステリオの活動を本格化させる。
(*以下掲載されていた写真のキャプション情報)
CAP(本人)
寺尾さんはなかなかのスポーツウーマンでもある。2005年11月にはニューヨーク・フルマラソンに初出場し、夫・ジョシュア・レヴィーン氏と共に完走している。
CAP(キャンプ)
ミステリオ・サマーキャンプの模様。(写真提供/ミステリオ)
「サマーキャンプをはじめたきっかけは、リサーチをしたら
“子どもの頃の思い出”の8割がキャンプだったから」
「大人も子供も楽しめるのが、サマーキャンプの魅力」。
「自然の中で思いっきり走ったり転んだり泣いたり、泥んこになって五感を巧みに使う時間が子どもには大切なんです」
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